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 大分前に出ていた、京極夏彦の短編連作……というか、長編というか。

 

 まずもって、実に酷いタイトルだ。読んだまんま。珍しく(冥談とか見る限りそうでもないのか?)現代劇で、それだからか、京極作品の持っている僕の好きな面が、いつもより遥かに濃く抽出されているように思う。

 僕は大概安っぽい人間であって、いちど文学部を出た(やたら長く学生をやっている原因)のは概ね中学時代に『姑獲鳥の夏』を読んだからで、そこに含まれている内容に衝撃を受けたからで、いろいろ今にいたるまで引きずっている気がする。

 で、そのエッセンスが何かというと、煎じ詰めてかつ中二病的に表現するなら、「世界の果て」とでもなるだろうか。別に、上半身はだけて赤いスポーツカー乗り回すどこかの誰かというわけではなくて。もう少しそれらしく表現しようとするなら、「世界そのものの世界性」とか、存在の持つ耐え難い無価値性とか、まあどう言い換えても益体ないことには違いない。そのものを直視すると猛烈に嘔吐するようなアレだ。

 これが、人によっては京極作品、とくに時代物を「おかしい」だの「時代に即していない」だのと言い募る原因になっている要素なのだと、勝手に思っている。まさに徹頭徹尾現代的な感覚、というか余計なことを考える余裕のある時代の感覚というやつで、食うや食わずでとにかく生きなければならないような人間の思いつくことではない。何が価値があるかなどと考え込めるのは、ほんとうに価値のあるもの――要するに生きる上で必要な衣食住――の充足した人間だけだ。それ以外の価値などはすべて付け足りだと、僕なんかは思い込んでいる。

 

 『死ねばいいのに』と告げる理由は、生きるワケを問うことの裏返しだ。生きるワケとは、生きていていい由縁と言い換えることもできる。

 何か価値があると考えることは、すべてを価値というレンジの中に入れ込もうとする発想と等しい。これこれのことに価値がある、これこれは価値がない(乏しい)と考えるからには、理由にすら価値を求めなくてはならない。そして、より無価値な理由は淘汰されて然るべきだと考えなくてはならない。

 ようするにそれは、すなわち人の生き死にすらも価値算定の射程内に収めてしまおうという発想へと帰着する。

 そんなことはないというのなら、要するにそれは無自覚なだけだ。人について好悪を表明する時点で、敷衍していけば、かれが生きるべきか死ぬべきかを語っているのだから。

 私見だがほぼ常に、京極作品の真ん中に流れているのは、その問いかけだ。価値があると思うことは果たして正しいのか。

 果たして僕はいままで、何人の人間に死ねと言ってきたのか。そして、僕は他人の価値観を寛容できるのかとか、そんなことを考えながら読んでいた。読後のなんともいえない感覚は中学以来変わらないもので、非常な懐かしさを与えてくれた。

 思うに、若干マゾッ気があるのかもしれない。
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